ロマンを求めいて伊予金子氏系譜

伊予金子氏系譜
備後守元宅
十郎元成の嫡男として天文20年(1551年)生れで永禄12年(1569年)19歳の時に結婚し天正陣の時は35才四男一女を挙げる。
元宅の有名な言葉に「昨日は長曾我部に頭を下げ、今日は又小早川に腰を折る。所せん肩をひそめて世を渡らんよりは潔く討死をして名を後世に残すべし、勝負は時の運なり、死力を尽くし一戦いを交え、刀折れて矢尽きるまで身命を賭して戦うべし・・・。」元宅はすでに死を決意して小早川軍をむかえ討った。
対馬守元春
徳島県今治の大雄寺に逃れ宗虎和尚の弟子となり40年後に金子城の舘跡に慈眼寺を再建する。開山・・関奄本徹大和尚(対馬守元春)
孫八郎家綱
金子城の落城により土佐に落ち延びたが再び郷土に帰って来たと伝えられている。愛媛県西条市船屋金子はその子孫と言われている。
備後守元宅の家族
かね姫(16歳)・毘沙寿丸(11歳)・鍋千代丸(8歳)一族郎党生き残った土佐の援軍も含め土佐の長曾我部元親のもとへ落ち延びた。
かね姫
長曾我部元親もとに以前から人質として来ていた長男専太郎の元へ落ちの延びてくる。関ヶ原の戦いで敗れた長曾我部のあと山内一豊が土佐24万石の藩主なる。
かね姫は山内家の奥向きの女中取締りとなり、金子橋の館に住居し安楽な生涯を送り一生独身(80歳)で終わったとも言われる。
長男専太郎
現在16代目の子孫は、埼玉県大宮市で小児科の病院を開いておられる。金子文書約40通を保管されている。譲良親王より北条高時を討てという金子氏に出された命旨、弘安5年に将軍家より頼広に出された、伊予國新居郷を与えるという書面、また長曾我部より出された起請文、特に中央で有名なものは金子元宅が子供毘沙寿丸に与えた遺言状である。
次男毘沙寿丸
金子城の跡継ぎと定められていた人である。大阪夏の陣で長曾我部元親の子盛親と共に豊臣方に加わり、大阪城落城後に逃げて帰り、現在の愛媛県伊予郡双海町高野川。子孫は大洲藩主の倉奉行となり明治迄仕える。いまも先祖の遺品が残っている。
鍋千代丸
後年に江州藩に仕え延宝7年病死する。

新発智丸
土佐に子孫を残している。その一人神戸製鋼を興した金子直吉氏である。慶応2年6月13日(1866年) 昭和19年(1944年)2月27日)日本の実業家である。
昭和10
年に天正の陣350年の法要を慈眼寺で盛大に行われた。67余才の高齢であつたが、医師と看護婦二人に付添われ金子備後守元宅公の後裔金子直吉氏の参列焼香がありました。
法要の時に句を詠みます。「天正の矢叫びに鳴けほととぎす」片水という号の俳人でした。
この句碑は現在、滝の宮公園、金子山の参道正面に畳二枚位な自然石に刻まれております。
金子直吉氏

予州金子氏直系「七ッ亀甲」(きっこう)の家紋
1・此の家紋は日本では珍しい家紋です。現在金子備後守の直系の一族以外には使用されておりません。

2・金子城は金子氏が居たから金子城と呼ばれていた。別の名は「橘江城」(キツコウ)と言います。この呼び名を取って亀甲 という家紋としたのです。

源平時代の金子氏と伊豫の金子氏